2013年6月27日木曜日

関東大震災から学ぶこと




             関東大震災 被災した浅草付近の写真



両国駅西口下車徒歩10分のところに横網町公園がある。その敷地内には東京都慰霊堂と復興記念館がある。慰霊堂は関東大震災遭難者、約58000人と東京大空襲遭難者、約105000人の霊が奉祀されている。東京というところは22年という短い間に、この2つの災難(1つは天災、1つは人災)によって2度壊滅状態になった。

関東大震災
1923年(大正12年)9月1日午前11時58分突如としてM7.9、震度6の激震が東京を襲った。震源は相模湾海底。前夜は豪雨、9月1日は真夏が戻って来たような日であった。昼食の用意で多くの家庭で火を使っていた。当時は木造の家が多く、地震と気づいた時にはもう130カ所で出火、黒煙の炎が各処から立ち上った。煙にまき込まれて逃げ惑う人々。それを押し分けて走る子供を背負った母親、年寄りや病人をつれて右往左往する若者。人々は火炎を逃れんと広場や空き地へと雪崩を打って走っていた。両国近くの本所横網町には軍用跡地の2万4千坪を占める空き地があった。延焼火災から逃れるための広域避難所として最適なはずであった。しかし、木造の多い地域の火災は火災旋風となり、前夜の台風の影響もあってか風も強く、炎は水平にも走った。それで、跡地にぎっしり身動きもできないほど詰まった人々の持ち物(箪笥、荷物、風呂敷包みなど)に燃え移り、その場で3万8千人の老若男女が焼死してしまった。さらに火災は42時間治まらず、当時の市域の約5割、戸数の約7割を焼失し、東京全市だけで5万8千人の方々が亡くなった大惨事となった。東京の2分の1は見渡す限りの焼け野原と仮し、江戸時代一番の繁華街であった両国あたりの下町は全焼してしまった。


                 皇居二重橋付近の地割れ

上野公園の西郷銅像が尋ね人の張り紙で埋まった。当時、情報手段も限られていた中、どんな混乱状態だったか容易に想像するに難くない。猛火が消えると、テントやトタン、ムシロなどで造った仮住居が皇居前広場、日比谷公園、その他の空き地に設けられて辛うじて雨露を凌いだ。鉄道が開通するようになると多くの人が地方に疎開し、都心部の300万の人口が100万人も減少したという。皇居二重橋付近で大きな地割れが見られた。しかし、揺れによる被害そのものは震源地に近い小田原、横浜や鎌倉のほうが大きかった。津波被害もあった。2m以上の地盤の隆起が見られたところもあった。海底では300mも沈降があったと報告されている。関東各地を合わせると約10万人以上の生命が失われ、当時の見積もりで被害総額は約60億(当時の国家財政の4倍以上)となった。アメリカ、イギリス、中国、その他の国々が支援を申し出た。

関東大震災から学ぶ事
1)突然起った大地震。備えがなかった。
2)木造家屋が多く、耐震性も低かった。
3)昼時で火を使っていた。死因の多くは火災だった。
4)広域避難所となるべく場所で火災旋風により多くの死者が出た。

現在は
1)阪神淡路、東日本大震災を経て、防災意識は高まっている。また、南海
トラフ、首都直下型地震など次の地震の情報(長期予測を含む)が与えられている。
2)1981年の建築基準法改正で耐震性は大きく改善された。今日、耐震設
計は行き着くところまで行っている。(震度6強まで倒壊しない設計)
3)いわゆる木密地帯(環七沿いの木造密集地帯など)の区画整理が始まって
いる。すでに火災発生地域が特定されている。
4)しかしながら、木密地帯の住民の多くは高齢者で区画整理は予定通りには
進んでいない。

さらに、湾岸の5000基の石油タンク、12基の火力発電所や湾上のタンカーなどによる火災、それによる有毒ガス対策などはまだまだこれからと言えよう。怖いのは火災旋風で、もし強風の時であれば、炎は水平にも走る。ビルの間を竜のように這い回るだろう。関東大震災では広大な広場で多くの死者が出たことは忘れてはならない教訓である。延焼火災を避けるべく設置されている広域避難所は本当に安全なのだろうか?一時避難所から広域避難所への移動は安全にできるのだろうか?今日の東京は、当時なかった高層ビルや地下鉄網や地下構造物が多くあり、違った型の災害が起る事が予測される。最近は地下水の上昇問題もあり、現実的なシュミレーションによる対策が必要となる。


                                                               3:11時の千葉製油所

東京大空襲
1945年3月9日から10日にかけての東京大空襲はかつてない大規模な爆撃となり、わずか数時間で8万3千人の死者と無数の負傷者を出した。突然の地震とは異なり、避難訓練はしていたものの、これほどの大規模爆撃には為す術もなかった。江東、墨田、台東、中央の各区を中心とした都心のほとんどが火炎に覆われて2−3時間のうちに26万8千余の家を焼き尽くした。こうして東京は再び見渡す限り一面の焦土と化した。しかも皮肉なことに、この人災は、天災である関東大震災の数倍も激しい凄惨な状況であったという。遺体の数は合計10万5千体を超えた。

東京はこの2度の首都消失を経験してきた。今後、首都圏直下型地震が3度目となるのか?はたまた南海トラフ地震が日本の消滅になるのか?大変な時代に突入してしまった。レジリエンスという言葉が聞かれる。柔軟な復興力とでも言おうか。ハード面(耐震化など)、ソフト面(防災コミュニティ/絆つくりなど)両面での復興力強化が必要とされる。世界都市東京の復活はありえるのか?


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日本防災士機構認定 防災士
災害支援団体クラッシュジャパン次期東京災害対策担当
栗原一芳(くりはら かずよし)

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